就業規則

1日で辞めた労働者に退職金を!?改訂されたモデル就業規則の問題点

2023年10月30日

退職金を支払うとなったとき、社長からすれば、それまでの感謝の念を込めて退職金を弾みたくなるような人もいれば、「こいつに退職金なんて1円も払いたくない、今まで置いてやっただけ感謝しろ」と思う相手もいることでしょう。

ただ、それもある程度長い付き合いあるからそう思うわけで、雇って1日2日で辞めた人であれば、良くも悪くもそこまでの深い感情を持つことは稀ですし、そもそも退職金を払う払わないの話にならないのが普通です。

しかし、今年の7月に改訂されたモデル就業規則を深く考えずに自分の会社に導入すると1日で辞めた労働者に対してすら退職金を支払わないといけなくなるかもしれません。

 

1. 労働移動の円滑化とモデル就業規則の退職金規定

今年の7月にモデル就業規則が改訂されたのは、今年の5月に公表された「三位一体の労働市場改革の指針」を受けてのものです。

この三位一体の労働市場改革の三位が指すものは「リ・スキリングによる能力向上支援」「個々の企業の実態に応じた職務給の導入」、そして「成長分野への労働移動の円滑化」なのですが、今回のモデル就業規則の退職金規定の改訂と関連するのは最後の「成長分野への労働移動の円滑化」となります。

ただ、労働移動の円滑化とモデル就業規則の退職金規定の改訂に何の関係があるのか、と思う人もいることでしょう。

というか、筆者自身も未だにそう思っているというか、納得がいっているわけではないのですが、一応、政府の言い分としては、一般的な退職金制度のように、一定の勤続年数を退職金の支給条件としていたり、自己都合退職の場合に退職金を減額したりすると、労働者側が転職や起業のために自己都合退職する際の障壁となるため、指針では退職金制度に関して見直しが必要であると指摘しています。

この指針での指摘を受けて、モデル就業規則の退職金規定がどう変わったかというと、以前のモデル就業規則の退職金規定にはあった勤続年数や自己都合退職の要件をきれいさっぱりなくしてしまいました

以下が、モデル就業規則の退職金規定の変更前と変更後のものです。

【変更前】
(退職金の支給)
第52条 勤続〇年以上の労働者が退職し又は解雇されたときは、この章に定めるところにより退職金を支給する。ただし、自己都合による退職者で、勤続△年未満の者には退職金を支給しない。また、第65条第2項により懲戒解雇された者には、退職金の全部又は一部を支給しないことがある。
2 継続雇用制度の対象者については、定年時に退職金を支給することとし、その後の再雇用については退職金を支給しない。

【変更後】
(退職金の支給)
第54条 労働者が退職し又は解雇されたときは、この章に定めるところにより退職金を支給する。ただし、第68条第2項により懲戒解雇された者には、退職金の全部又は一部を支給しないことがある。
2 継続雇用制度の対象者については、定年時に退職金を支給することとし、その後の再雇用については退職金を支給しない。

 

2. モデル就業規則の退職金規定変更の影響

2.1. モデル就業規則は就業規則のデフォルト

では、モデル就業規則の退職金規定の支給条件から勤続年数の要件をなくし、自己都合退職する労働者に対しても支給額を減額しないとすると、会社や社会全体にどのような影響があるのでしょうか。

それを説明する前に、まず厚生労働省のモデル就業規則の役割を確認しておく必要があります。

これは筆者の個人的な考えとなりますが、厚生労働省のモデル就業規則の役割は就業規則のデフォルトであると考えています。

つまり、厚生労働省のモデル就業規則はあくまで初期設定であり、これを基準に各自、自分の会社に合った内容に変更していくことを前提としたものといえるわけです。

しかし、テレビゲームの設定などもそうですが、世の中にはデフォルトから設定を変えない人も少なからずいます。

というか、そういう人はかなり多いことがわかっていて、例えば、ドナーカードの意思表示方法が「臓器提供の意思がある場合に○をつける」としている国と、「臓器提供の意思がない場合にのみ○をつける」としている国とでは、後者の方が圧倒的に臓器提供の意思を示す人が多くなります。

これは同じキリスト教圏でもそうなので、国によって臓器提供の考えが極端に違うということは考えづらく、結果、この統計では、カードに○を付けない=デフォルトのままにしておく、という人が世の中にはたくさんいることがわかるわけです。

これを踏まえると、モデル就業規則の退職金規定のデフォルトが、勤続年数の要件や、自己都合退職時の減額の記載がないものになったということは、これをそのまま使う人が増えるであろうということが予想されるわけです。

 

2.2. 勤続期間1日でも退職金!?

もちろん、デフォルトの内容が世のため人のためとなるものであれば特に問題はありませんが、今回のモデル就業規則の退職金規定の改訂はそうとは言い切れません。

なぜなら、退職金の支給条件に勤続年数の要件がないということは、入社数か月、下手すると1日で辞めた労働者に対しても、退職金を支給しないといけないことになるからです。

あなたが会社の社長だったら、数日で辞めた労働者に退職金を支払いたいですか? という話です。

加えて、退職金の支給条件に勤続年数がないことが社会的に一般化すると、さらに厄介な問題として、退職金目当てに会社を転々とする者が現れる可能性が出てきます。

これは、いわゆる期間工の入社祝い金などでも起こる問題ですが、期間工の入社祝い金については、支給が一定の期間の就労を要件としていたり、入社祝い金目的で支給直後に退職した労働者をブラックリスト化したりといった対応を行うなど、会社や業界が制度の悪用をさせないようにしています。

また、雇用保険の失業等給付についても同様のことが起こりやすく、それを避けるため、一定の加入期間を条件としたり、給付制限期間を設けたりしています。なお、今回の指針にて、将来的には雇用保険の失業等給付の給付制限期間を設けないことが検討されていますが、こちらも無条件ではなく、1年以内にリ・スキリングに取り組んでいた場合など一定の条件を満たした場合に限られる予定です。

しかし、今回改正された厚生労働省のモデル就業規則の退職金規定には、こうした制度の悪用を防止する定めはありません。つまり、モデル就業規則をそのまま活用するというのは制度の悪用、モラルハザードに繋がるリスクがあるわけです。

 

2.3. 一度設定してしまうと変更は難しい場合も

今回のモデル就業規則の改訂の内容は、法令の改正に基づいたものではなく、そのため、このように変更しないといけない、という強制力もありません。

なので、すでに退職金制度を整えている会社であれば、今回の改訂内容は、はっきり言って、鼻で笑って無視すればいいものです。

その一方で、これから退職金制度を設計しようと考えている会社については、今回のモデル就業規則の改定により、思わぬ落とし穴にはまる可能性があります。

なぜなら、すでに述べたとおり、厚生労働省のモデル就業規則は就業規則のデフォルトなので、これを基に制度を整えようとする会社は少なくないと考えられます。

しかし、モデル就業規則の内容を基に制度を整えた結果、上で見たような支給条件に勤続年数がないことの問題点に、後で気づいてこれを変更しようとしても、労働条件の不利益変更となり、労働者の同意が得られず、それができない可能性があるからです。

 

3. まとめ

はっきり言って、今回の厚生労働省のモデル就業規則の退職金規定の改訂内容は、完全に政府の都合優先で、会社の側に全く立っていないものです。

なので、会社の経営者や人事労務の担当者の方たちは、一切参考にする必要はありません。

厚生労働省のモデル就業規則の全てを悪く言うつもりはありませんし、わたし自身、業務で参考にさせてもらうことも多いのですが、今回の改訂内容は労務のことがあまりわからない人も読むであろうものが、こういう内容になっているのは非常に残念です。

 

今日のあとがき

今回のモデル就業規則の改訂があった今年の7月というのは、筆者の新刊「就業規則作成・書換のテクニック」のゲラ校正の真っ最中でした。

なので、改訂内容に合わせて、中身を変更することも考えたのですが、本編でも述べたように、会社の目線でいうととてもじゃないけど使えたものではない。

そのため、勤続年数の要件や自己都合退職時の減額についてはそのまま残しています。

そして、これも本編で述べたことですが、個人的には本当に厚生労働省のモデル就業規則の全部が悪いとは思ってないんですね。ただ、法律に書いてないようなこととか、政府の思惑や思想が見え隠れするもので、会社の実態や利益に反するものについては、いくら厚生労働省から資格をもらってる立場といえど、無条件に受け入れるわけにはいかないというのが自分の考えです。

そんな、厚生労働省に忖度しない筆者の新刊「就業規則作成・書換のテクニック」は、全国の書店、ネット通販等で好評発売中です。

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  • この記事を書いた人

社会保険労務士 川嶋英明

社会保険労務士(登録番号 第23130006号)。社会保険労務士川嶋事務所の代表。「いい会社」を作るためのコンサルティングファーム「TNC」のメンバー。 社労士だった叔父の病気を機に猛勉強して社労士に。今は亡くなった叔父の跡を継ぎ、いつの間にか本まで出してます。 著書に「「働き方改革法」の実務」「定年後再雇用者の同一労働同一賃金と70歳雇用等への対応実務」「就業規則作成・書換のテクニック」(いずれも日本法令)のほか、「ビジネスガイド」「企業実務」などメディアでの執筆実績多数。

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